美濃焼の歴史

奈良時代〜室町時代

美濃焼の起源は奈良時代にさかのぼり、須恵器の製作が始まったことが知られています。

平安時代には植物灰を使った灰釉陶器が登場し、鎌倉時代からは釉薬をかけない「山茶碗」と呼ばれる民衆の陶器が広まりました。室町時代になると美濃焼の生産が本格化しました。

無釉陶器の製作が行われ、後に瀬戸から伝わった施釉陶器の技術も取り入れられました。この技術の発展により、美濃焼は時代に合わせて進化し続けてきました。

美濃焼の歴史は長く、さまざまな時代の技術や文化の影響を受けながら、独自の美しさと魅力を築き上げてきました。

美濃焼の黄金期、安土桃山時代 「茶陶」として栄華を極める

桃山時代(1573年〜1603年)は美濃焼の黄金期とされます。この短い期間の間に、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部といった美濃焼の様式が大きく発展し、優れた作品が多数生み出されました。

当時の日本では、中国や朝鮮などの海外の茶碗が注目され、和物茶碗はあまり評価されていませんでした。しかし、この風潮を変えたのは千利休や古田織部など、名を遺す茶人たちでした。

利休は枯淡を重んじ、わびさびの精神を茶の世界に取り入れることで知られています。一方、利休の弟子である古田織部は大胆で自由な美を追求しました。彼が手掛けた美濃焼の「織部」は、鉄絵や鮮やかな緑色など特徴的なデザインを持ち、当時の前衛的な存在とされました。また、織部の美濃焼は黄瀬戸や瀬戸黒、志野にも影響を与えたと言われています。

さらに、この時代の為政者である織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も美濃焼に関わりました。秀吉は侘び茶の精神に共感し、利休を庇護していました。彼らの好みも美濃焼の発展に影響を与えたと考えられています。

利休や織部、為政者たちの活躍により、美濃の窯元は繁盛しました。商人たちは岐阜県から京都や大阪、さらには遠く江戸にも美濃焼を広めることに成功しました。

江戸時代〜明治時代

江戸時代に入ると、美濃焼の焦点は茶陶から日常雑器へと移りました。茶陶の中心は京焼に移り、美濃焼は主に日常生活で使用される器の生産に力を入れるようになりました。

また、九州から連房式登窯という窯の形式が導入されました。この変化により、美濃焼では御深井と呼ばれる鉄絵具を用いた摺絵が特徴的な作品が作られるようになりました。

江戸後期には染付、青磁、白磁など、さまざまな陶器が美濃焼から生産されるようになりました。

さらに、窯株制度と呼ばれる制度が廃止され、美濃焼の生産はさらに拡大しました。

窯株の所有者による制約がなくなり、技術改革による品質向上や生産力の向上が進みました。

その結果、美濃焼の生産量は増加し、広く人々の生活に根付いていきました。

大正時代〜昭和時代

第一次世界大戦の勃発により、世界市場が好況を迎えたことで美濃焼の生産者が増加し、工場施設も拡張されました。この時期、美濃焼は加飾技術の開発が活発に行われました。

加えて、美術的な価値の高い工芸品を創り出す優れた陶工も登場しました。彼らの存在により、美濃焼の技術と美学はさらに高まっていきました。

窯に関しては、近代的な石炭窯への転換が行われました。成形作業では電動ロクロの使用が導入されました。

戦後には、桃山陶といった美濃焼の伝統を風刺した陶芸作家たちが活躍しました。

これにより、美濃地方から多くの才能ある陶芸作家が輩出されることとなりました。彼らは新たな表現手法や美濃焼の可能性を追求し、美濃焼の魅力をより広めることに貢献しました。

現在の美濃焼


美濃焼は、陶磁器市場において国内シェアの約50%を誇り、食卓の器として重要な存在となっています。一方で、釉薬の流れや形のいびつさを表情として楽しむ、茶人好みの美濃焼の特徴は今もなお愛され、現代の需要に応じた新たな形の追求が続けられています。

その中で注目すべき存在が、中川政七商店が美濃の窯元である作山窯と共同で手がけた「きほんの一式」の美濃焼シリーズです。このシリーズの中でも、中鉢は「お茶道具としての美濃焼」らしさを最も感じる形状とされています。抹茶碗に近い大きさでありながら、程よい重さと厚みが手に馴染み、料理の盛り付けや取り扱いにも便利な形状となっています。

美濃焼は、和食器に留まらず洋食器としても広く用いられています。その形状も多様で、例えば楕円形のプレートはシンプルなパスタやカレーなどにも素敵に映えます。また、軽量で電子レンジで利用可能な商品も存在し、スープカップやカップ&ソーサーなどは洋食器としての用途に特化したデザインとなっています。

美濃焼は現代の食卓を彩るだけでなく、洋食器としても幅広く活用されています。多様な形状や利便性の高さが、さまざまな食事のシーンに適応し、美しい食体験を提供してくれます。